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ゼミ Archive

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2009年度後期ゼミ_まとめ1

後期ゼミについての簡単な報告をさせていただきます。我々は後期のゼミで、次の論文を読んでいました。

Cook, Nicholas. 1998. Disney's Dream: The Rite of Spring Sequence from 'Fantasia'. In Analysing Musical Multimedia, ed. Nicholas Cook, 174-214. Oxford: Oxford University Press.

タイトルにも書いてありますが、この論文は、ディズニー制作のアニメーション映画『ファンタジア』(1940)における、映像と音楽との相互関係を分析するという内容になっています。『ファンタジア』は、既存のクラシック音楽作品(を編集したもの)に映像を付けたアニメ作品です。全体はいくつかのパートに分かれており、そのうちの一つにストラヴィンスキーの《春の祭典》が用いられています。

ストラヴィンスキー自身は、この作品を酷評していたようです。権利関係で揉めていたからか、本当に出来が気にくわなかったのか、あるいは両方かもしれません。論文の冒頭で紹介されているインタビューで、彼は次のように述べています。

私は作品の映像面に関しては何も言うつもりはありません。どうにもならない愚行について批判したくはないからです。しかし、次のことに関してはくり返し言いますけれども、このフィルムの音楽的な見地は、危険な誤解を推し進めています。(p.174、孫引用)


また、他のインタビューではカラヤンの演奏を批判して「ディズニーの死にかけた恐竜たちよりも退屈だ (duller than Disney's dying dinosaurs)」(p.176、孫引用)と言ったりもしていたようです。

こういったエピソードが紹介されたあと、映像と音楽の詳細な分析が始まります。両者の逐語的な補完関係(流星がクラリネットのモティーフと呼応しているとか、ロング・ショットでの火山の噴火と、弦楽器のピチカートが同期させられているとか)に着目しつつ、さらに構造的な関連性(楽曲上の「推移部分」と、映像上の「推移場面」とが一致している等)の指摘も行われています。

論文の途中で、ヴァン・デン・トゥーン van den Toornによる《春の祭典》の解釈について触れている部分も興味深いところです。ヴァン・デン・トゥーンによると、《春の祭典》のリズム的な要素は二通りの解釈が可能であり、「リズム上の(表層的な)不規則性」と「拍節上の規則性」との両方に依存していることが分かります。クックはこの両義性に関しても『ファンタジア』の解釈へと取り入れ、論を進めていきます。(p.187~)

音楽と映像との関わりは、非常に面白い研究テーマです。今後も要注目だと思われます。

2009年度前期ゼミ_まとめ2

7/2(木)には、宮田(M2)によるゼミ発表がありました。テーマは「ラフマニノフのピアノ作品におけるディエス・イレ」というものです。ディエス・イレとは古いグレゴリオ聖歌の名称で、ラフマニノフが好んで引用している聖歌なのですが、このメロディの「使い方」に関する分析を行います。その際、「引用か非引用か」といった区別に加えて、「聴取可能か不可能か」といった別の線引きを行い、ラフマニノフのディエス・イレ引用について音響面からもアプローチしよう、という趣旨の発表でした。

ただし、本人は現在このアプローチを断念しているようです。

2009年度前期ゼミ_まとめ1

数ヶ月ぶりの更新になってしまい、申し訳ありません。前の記事で予告したように、できれば定期的に論文の内容やゼミの様子を報告したかったのですが、諸事情で大幅に遅れてしまいました。ともかく、どういうものを読んでいたのかを、紹介させていただきます。

我々は前期のゼミで、次の論文を読んでいました。

Cook, Nicholas. 2008. We Are All (Ethno)musicologists Now. In The new (ethno)musicologies, ed. Henry Stobart, 48-70. Lanham, Maryland: The Scarecrow Press.

この論文では、70年代以降の音楽学の動向が大まかに記述されていると共に、今後の音楽学がどのようになってくのか、あるいは、どうあるべきかが示されています。

筆者によると、近年の音楽研究では「民族音楽学の方法を西洋音楽に応用する」というやり方が、一種のスタンダードになっています。たとえば、民族音楽学者がコンサートや音楽学校の伝統についての研究をしたり、音楽学者が民族音楽学の方法を用いて、グレゴリオ聖歌の研究をしたりしています。

このことは、旧来的な音楽学/民族音楽学、という区分の周辺で起きている単なるノイズではなく、音楽研究そのものの方向を決定するような一つの流れを表しています。筆者は二つの領域の近接性を示す一つの例として、ニューミュージコロジーに着目します。

ニューミュージコロジストと呼ばれる人々は、とりわけ旧来の音楽学的方法に対して批判的な立場を取り、単なる楽曲分析や純音楽史的な考察を超え、社会的な「意味」を求めるような方向に舵を切りました。このことは、「芸術のための芸術」といった観念から脱し、社会や共同体の文脈の一部として音楽を捉えるという点で、民族音楽学の方法に近づいています。

ニューミュージコロジーと民族音楽学が融合しつつある、という見方には反対意見もあります。筆者はその例として、StockによるMcClary批判を挙げています。Stockはおおよそ、「McCalry=ニューミュージコロジーは、旧来的な作家主義や権威主義を受け継いでおり、本質的には旧音楽学の焼き直しである」といった批判を行い、民族音楽学との間に一線を引いています。これに対して筆者は、そもそも音楽学(ニューミュージコロジー)/民族音楽学、という区分の立て方自体が無意味で無効である、といった反論を展開します。

筆者の主張によると、音楽学と民族音楽学はそれほど本質的に異なる分野ではない、ということになります。確かに音楽学は、「作曲家の意図にさかのぼる」といった考え方を主流としていましたが、初期の民族音楽学もそれと近い面がありました(ただし、離脱が早かった)。またそこから「音楽の社会的意味」を求めるようになり、さらに社会的意味の生成も含めた「(音楽的行為全般としての)パフォーマンス」を研究するような立場へ移行するという点で、両者は相似形の歴史を持っていると考えられます(そこでは音楽=Music=楽譜がパフォーマンスの一部として捉えられます)。

この意味論からパフォーマンス論への転回(あるいは展開)という流れは、具体的に言うと、音楽学においてはアドルノからニューミュージコロジーへ、民族音楽学においてはメリアムからティモシー・ライス(とライスが参照している民族音楽学者)へ、というプロセスを辿って、最終的に同じゴールに辿り着くストーリーとして説明されています。

もちろん、両者の歴史には異なる面もあり、実際問題として、ある時期以降の音楽学が民族音楽学を理論的に追従しながら発展してきたという面は否定できないのですが、それらは、両者を全く別の物として切り分ける根拠となるほど決定的な差ではない、と筆者は考えます。なぜなら、トータルとして見れば、両者は同じような課題に突き当たり、同じような結論を出し、同じようにクロスオーバーする方へと進んできたからです。

このように、研究方法でも研究対象でも区別がつかないという現状においては、両者を何らかのカテゴリで区別すること自体が不合理です。そこで筆者はShelmeyの言葉を借りて、これからの両学問の向かう先として「広義の音楽研究」を提唱しています。そこでは旧来の様々な音楽研究分野は、(音楽心理学、音楽社会学、音楽理論等も含めて)「パフォーマンス研究」のためのツールとして統合されます。

「広義の音楽研究」のスタンスは、旧来の音楽学のようにインサイダー(作曲家の意図の理解者、正統後継者)として語る立場でもなければ、民族音楽学のようにアウトサイダー(客観的な観察者)として語る立場でもありません。ある面ではインサイダーであり、同時に別の面ではアウトサイダーであるという自分自身の両義的立場を前提としてものを語るような新しい立ち位置です。このことは、我々がもはやインサイダーでもアウトサイダーでも居られなくなったという、社会的構造や「知」の変化を反映しています。

2009年度前期木曜ゼミ_その1

今年度もまた授業とゼミが始まりました。皆さんよろしくお願いします。今年は修士一回生の学生2人が新たに柿沼ゼミに加わりました。卒論ではそれぞれ、スティーヴ・ライヒの研究、アルテュール・オネゲルの研究をしていたそうなのですが、修士課程で何をやるかは当分未定だそうです。

今回のゼミでは次の論文を読むことになりました。

Cook, Nicholas. 2008. We Are All (Ethno)musicologists Now. In The new (ethno)musicologies, ed. Henry Stobart, 48-70. Lanham, Maryland: The Scarecrow Press.

本のタイトル(The new (ethno)musicologies)から、掲載されている文章が「ニューミュージコロジー(新音楽学)」に関するものであり、かつそれが「民族 ethno」と括弧書きされるほど、「民族音楽学」に接近しているらしいということが推測されます。「ニューミュージコロジー」とは、80年代以降にアメリカで台頭してきた音楽学の一潮流です。現代思想やジェンダー理論の考え方を大幅に取り入れたことで知られています。

私たちはこれからニコラス・クックによる論文を読もうとしているわけですが、この音楽学者は2002年に静岡で「ニューミュージコロジー」についての「音楽学再考」というテーマのシンポジウムを行ったそうです。その際、むずかしい英語を数時間にわたって、それもマシンガンのような勢いで聴衆に投げかけたらしく、その場にいる人のほとんどは唖然とするしかなかった…という伝説が残されています。

実際、本を開いてクックの文章をよんでみると、すっと読める類の英文ではありません。一つの文章が十行ぐらい平気で続いたりします。柿沼教授によると、今回の論文は、彼の他の文章に比べれば「まだマシ」だそうですが、きちんと読み下せるのか若干の不安が残ります。果たして私たちはこの論文の中身を理解していけるのでしょうか。

その辺りの経過報告も含めて、これからしばらく柿沼ゼミの様子をレポートさせていただこうと思います。前年度はゼミでの研究発表の類を書くことができませんでしたが、今年はそれも報告することができれば良いなと考えています。

2008年度後期木曜ゼミ_その4

年を跨いでしまいましたが、前回の続きをまとめておこうと思います。私たちは、Richard Taruskin による著書『Stravinsky and the Russian Traditions: A Biography of the Works through Mavra』の第5章「Bells, Bees, and Roma Candles」を読んでいます(読んでいました)。今回は彼が《幻想的スケルツォ》の中で用いていた和声組織・音階組織について紹介します。

といっても、この部分はゼミで講読していた時に最も読みにくかった箇所であり、出席者全員が机に向かって唸りをあげて悩み通した危険地帯です。当時、柿沼研究室の前を通った人が、部屋の中から異様な熱気を感じるとか、逆に寒気を覚える等の体験をしていた場合、その原因は我々の発していた不健康なエネルギーにあります。そういうわけで、なるべくさらっと内容を復習したいと思います。

彼が《幻想的スケルツォ》の中で用いているのは、いわゆる機能和声ではなく、また12音技法でも無調でもありません。彼は主に「8音音階」と「全音音階」に基づいて全体の音楽を構築しています。これらの音階に関しては、ドビュッシーやメシアンによって用いられた例が特に有名ですが、こういった特殊な音階を楽曲の基礎とする作曲法はチェレプニン等を経由して日本にも輸入されました(by 竹内(D1))。

「8音音階」は全音と半音とが交互に配置されることで成り立つ音階です。たとえば、『ゲゲゲの鬼太郎』のオープニング・テーマ(C, C, Es, F, Fis)がこれに近いです。CとEsの間にDを入れると8音音階の前半分になります。また『世にも奇妙な物語』のテーマ(D, E, F, G, Gis)も、似た音階を使用しています。つまり、聴く側にすこし不気味な、ゾッとするような印象を与える音階だと言えそうです。

「全音音階」の方は、その名の通り全音のみによって構成される音階です。ドラマやアニメの中で、回想シーンに入る際の効果音として、よく用いられたりすると思います(すこしクドイ使い方ですが)。初代『鉄腕アトム』のオープニングの開始直後にも登場しています。基本的には不安定な感じを醸し出す効果を持っているようです。これはむしろドビュッシーの作風を考えると分かりやすいかもしれません。

ストラヴィンスキーは《幻想的スケルツォ》の中で、これらの音階を分割したり和音の中に混ぜたりしながら、縦横無尽に用いています。具体的には、8音音階を4音ずつ分けて提示したり、和音が3度ずつ移行しながら堆積するパッセージ(third-rotations)の構成音として使っているようです。リムスキー=コルサコフやフランツ・リストに関しても近い例が紹介されているのですが、徹底しているのはやはりストラヴィンスキーの方です。

《幻想的スケルツォ》には、一つのパッセージの中で4種類の音階を同時に、異なるレベルで(全体の構成音、高音域、低音域、堆積和音、といった風な)用いている非常に複雑な箇所もあります。このことを著者のタラスキンは「悪魔的にクレバーな混合」として高く評価しています。またタラスキンは、「このことは、リムスキー=コルサコフのグループにとって、合理的に説明のつく非機能的・半音階主義の極地と思われたに違いない。また、それゆえ、ドイツやフランスにおける『頽廃』に対して『進歩的』と見なされた事だろう」とも述べています。

おそらく、これらのことが、師匠であるリムスキー=コルサコフからある程度受け継がれている、というのが本書のポイントの一つだと思われます。しかし一方で、彼は当時流行のモダニズムや印象主義に片足を突っ込んでいたため、師匠からは批判されっぱなしだったようです。そのようなエピソードが第5章の後半で色々と書かれています。やはりどのような天才であっても、何かしらの気苦労は抱えているようです。私も頑張って生きていこうと思います。

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